青山から佐藤さんへ

[第二十五信]「ただいま、世界。」

2015年1月6日

佐藤さん、新年おめでとうございます。
もう実際にはお会いしてますが、こちらからも(笑)。

さて、また間が空きました。申し訳ありません。

別の場で少しお話しましたが、昨年後半くらいから、どうも言葉が自分から離れるというか、身体から言葉がでないような感触があり、自分的にはなかなかしんどかったです。

この年末年始、たっぷりと映画を観たり小説を読んだりして、なんとなくまた言葉が戻ってきそうな気がしています。わたしには、物語がとても大切なのだなと実感しています。

わたしはほとんど勉強をしたことがないまま社会人になり、服をつくり、転職して、言葉にかかわる仕事でご飯を食べるようになりました。「書く」ようになりしばらくすると、それまで「読む」だけだった文字を言葉として発することに、ふと我にかえりました。それまではもちろん、書き始めてからもしばらくは言葉を意識せずに発していたのだと思います。

原稿というものを書かねばならなくなり、何も考えないときは手が勝手に動いていたのに、考え始めると、にわかに自分から出るどの言葉も「ほんとにそうかどうかわからない」ような居心地の悪さを感じるようになったんです。

ちょうど書き始めて半年くらい経った頃だったかなあ。どんどん書けなくなりました。言葉が出ないんです。たった500文字ほどの原稿が丸2日以上まったく進まず、泣きそうに苦しかったです。苦しくて辛い。でも逃げ出せない。終電の時間がきてもまたその日も書けず、一旦帰宅して、当時は自宅にパソコンがなかったので、原稿用紙を広げて鉛筆で捻り出した一行に絶望して消してまた書いてを繰り返しているうちに、空が明るくなり朝が来た。そうしたら、頭の中ではないどこか違う場所から、突然一行目のフレーズが目の前に現れました。

その一行が書けて以来、言葉は必ず自分じゃないどこかから訪れて、これまで書いてきたような気がしています。今日もそうですが。

昨年の後半の違和感も、それと似たようなことだったのかなと、今これを書きながら感じています。

仕事をし始めの頃とはまた異なるかもしれないけど、言葉と距離があるような感覚。なんとなくですが、頭で文章を書いてしまう方向に流れていってたんじゃないかなあ。

今、こうして書いているとき、わたしの言葉は頭から出ていないような気がします。

どこかから自分の中に何かが入ってくる。みぞおちのあたりから胸にかけてもやもやして、少しずつ上がってきて首のあたりでもごもご居座って、それをどうにか外に出さなきゃすっきりできない。そのために一度頭に循環させて鼻から出すというようなことをしています。

昨年後半は、耳や目から飛び込んだ何かを、瞬間的に打ち返すように口から出すような感じで書いていました。同じように言葉として外に出るけど、全然意味が違う。

なぜそんなことになったのだろう。やっぱりわたしがバカだからなんです。

ときどき心底うんざりしますが、わたしは根気よくものを考える力がない。集中力もない。そんな自分をわかってるつもりなのに、SNSなんかで膨大な知識や見識や見解が日々目の前を流れることで傷つく。落ち込む。焦る。ことこそバカなのですが。なぜわたしはこんなにものを知らず、浅はかな考えしか浮かばないのだろう。嫌になる。

結果、とにかく知識をたくさん入れようと、知識が得られそうな本を読んだり、知らないことを教えてくれそうな人の話を聞いたり、もちろんそれは大切なことでもあるけど、それで何かが自分の身につくと考えてしまうバカさ全開に全然気がついていなかったんですね。そんなこと、これまでに何度も繰り返して来たはずなので、ほんとうにお恥ずかしいのですが。こういうことを繰り返すのもバカなんだけど。まったく。

わたしがそんな深いバカループから少しだけ抜けだせたのは、前述したように物語に身を浸すという時間を過ごせたこともありますが、合気道の時間にも意味が大きかった気がしています。

合気道では、昨年秋くらいから、どんどんと「言葉にするのをやめよう」という方向に流れていきました。言葉にすることを否定するのではなく、今の自分はそういう時期ではない、身体に感じてもらいたい。そんな気持ち。そうか、日常では分からなかったのに、身体はそう感じてたんですね。いま書きながら驚きました。

佐藤さんがされている水曜日の「合気道当事者研究」は、実はいつもすごく複雑な気持ちでした。参加する度に、わたしは自分が頭で言葉を捻り出そうとしていることに気がついたからです。加えて、言葉を「狙って」出そうとすることも多かったんです。残念だけれど、わたしの中から出た言葉じゃなかった。疑問や発見が身体からわき出る仲間たちの言葉がただただ羨ましかった。わたしにもそんなときが来るのかな、と。どこか茫然としながらも、合気道当事者研究の場が自分にとって大切で、この場でしか感じられないことがあるとも認識していたような気がします。

合気道のお稽古の時間と、当事者研究の時間。それが相互に反応して、また身体から言葉を発するという回路が蘇ってきたのかもしれません。

考えてみると、この往復書簡でもわたしは、佐藤さんの更新に対して身体で考えて書こうとしていたのではなく、ちゃんと賢いこと書かなきゃと頭で「狙って」たのかも。だからどんどん書けなくなったのでしょうね。そら書けるわけないわ。恥ずかしい。

そういうわけで、長くなりましたが、ただいま世界。佐藤さん、お待たせしました!

という気持ちで年頭のご挨拶にかえさせていただきます。

これまでいただいている宿題は少しずつ、そのときどきに考えていきたいと思います。いつも待っていただいてすみません。そしてありがとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。